禅とは自分と向き合うことによって、人間が生まれた時からそれぞれ持っている本当の自分に気づき、目覚めるための手段と考えられます。 |
元々、人間は鏡のようにとてもキレイな心を生まれながらに持っているとします。ただ、年を重ねて、学校に行ったり会社に行き、色々な人との接点が増えることで人間関係に悩んだりすると、重りのようなモノを背負ってしまいます。 禅は、この重りを振り払うためのものと考えます。芸能をやったりスポーツをやったりすると得るモノがありますが、禅の基本とも言える坐禅をしても何も得られません。これが坐禅の一番いいところで、むしろ置いて帰るということが言えます。 |
ストレスや悩みといったマイナス面だけでなく、「仕事が上手くいった」、「恋人ができた」といった、いわゆるポジティブなことも置き去ります。失敗も引きずらないし、成功も引きずらない。失敗も成功も全て、血となり肉となり、自分のためになっているという考えです。 そのために自分と向き合う時間を自らでつくる、それがいわゆる“坐禅”と言われる修行です。鏡に犬の糞を映した時は当然汚いですが、次に美しい花を映したら美しい。この犬の糞の臭いや汚さを、あとかたもなく消し去り残さないということ。それが禅的な生き方と考えられます。 |
青原惟信僧の禅経験を通して、禅のプロセスを道破した見事な立言と言われる言葉 |
私は、30年前まだ禅に参じなかった時には、山を見れば山、水を見れば水であった。のちに親しく禅匠に見えて一箇の見処に入ってみると、山を見れば山でなく、水を見れば水でなくなった。それが今日、真の悟りに落ち着くと、何としたことぞ、もとのとおり山は山で、水は水であった。 |
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1 | 尋牛(じんぎゅう) | |
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たずねゆくみやまの牛はみえずして ただ空蝉の声のみぞする 第1図は「尋牛」 牛を捜そうと志すこと。悟りを探すがどこにいるかわからず途方にくれた姿を表しています。 心が荒れている。あばれ牛の如くに。 解説: 失った牛を探す場面。 |
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見跡(けんせき) |
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こころざしふかき深山のかひありて しほりの跡をみるぞうれしき 第2図は見跡」 牛の足跡を見出すこと。足跡とは経典や古人の公案の類を意味する。 牛はなかなか見つからない。 私は日一日、果てしない野原を歩き回ったけれど、どこにも牛は見当たらなかった。 そしてまた高い断崖絶壁をよじ登ったけれど、私の見たのは、一面に荒れ果てた岩山ばかりであった。 しかし、ある秋の夕、深い夜の闇が天地をおおおうとする一瞬前、私は森の入り口で、牛の足跡を見つけたのだ。 解説: 牛の足跡つまり手がかりを見つけるが、足跡を見てもそれは知識として牛の存在を知ったことにしかならない。 |
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3 | 見牛(けんぎゅう) | |
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青柳のいとの中なるはるの日に つねはるかなる かたちをぞみる 第3図は「見牛」 牛の姿をかいまみること。優れた師に出会い「悟り」が少しばかり見えた状態。 すばやく、そして用心深くその足跡を私はつけて進んだ。そして私は正しく見た。一匹の荒れ狂っている牛の姿を。 牛は怒りにもえ、私を見て襲いかかってきたけれど、かくすことのできない疲労のようなものが牛の体にただよっていることを、一瞬私は見逃さなかった。 解説: 牛の声を聞いて後姿を見る。 |
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4 | 得牛(とくぎゅう) | |
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はなさじと思へどいとどこころうし これぞまことのきづななりけり 第4図は「得牛」 力づくで牛をつかまえること。何とか悟りの実態を得たものの、いまだ自分のものになっていない姿。 今だ、私は祈りを込めて縄を投げた。 解説: ついに牛をみつけて手綱をつけるが、嫌がる牛を引きつけようとする状態。
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5 |
牧牛(ぼくぎゅう) |
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日数へて野がひの牛も手なるれば 身にそうかげとなるぞ嬉しき 第5図は「牧牛」 牛をてなづけること。悟りを自分のものにするための修行を表す。 手綱をひいて私は家に帰ろうとした。私はいささか得意になって、牛に言った。 解説: 荒れる牛を馴らして連れて帰るところ。手綱に張りつめた様子はない。ここではじめて、牛の顔が描かれる。
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6 |
騎牛帰家(きぎゅうきか) |
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すみのぼるこころの空にうそぶきて たちかへり行く みねのしら雲 第6図は「騎牛帰家」 牛の背に乗り家へむかうこと。 悟りがようやく得られて世間に戻る姿。 山を越え、野を越え、牛と私は村里の近くにきた。 解説: 牛に乗り笛を吹きながら家に帰る。牛の表情は明るく足どりも軽い。牛と童子は一体である。 |
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7 |
忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん) |
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よしあしとわたる人こそはかなけれ ひとつ難波のあしとしらずや 第7図は「忘牛存人」 家にもどり牛のことも忘れること。悟りは逃げたのではなく修行者の中にあることに気づく。 もはや、自己そのものが牛そのものです。 家へ帰って、私は牛をつなごうとすると、ふっと、牛は私の手から消えたのである。牛は確かに今しがた私の前にあったはずなのに、忽然として牛は失せた。 解説: 家に帰って牛の事を忘れ牛もどこかへ行ってしまう。牛を忘れ去る、つまり悟ったという気持ち自体を忘れた境地である。 |
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8 |
人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう) |
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雲もなく月もかつらも木もかれて はらひはてたる うはのそらかな 第8図は「人牛俱忘」 すべてが忘れさられ、無に帰一すること。悟りを得た修行者も特別な存在ではなく本来の自然な姿に気づく。 この心境を禅僧はよく、円相で表します。 また、不可思議なことが起こった。 解説:牛も人も忘れ去られている。迷いも悟りも超越した時、そこには絶対的な空がある。 |
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9 |
返本還源(へんぽんげんげん) |
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法のみちあとなきもとの山なれば 待つはみどりに花はしらゆつ 第9図は「返本還源」 原初の自然の美しさがあらわれてくること。 悟りとはこのような自然の中にあることを表す。 しかし再び、あの真空の世界に草が生え、花が咲き、鳥は歌い、春が来るのである。 解説: ここには童子も牛も描かれていない。悟る前とおなじく水は流れ花は美しく咲き誇る。
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10 |
入鄽垂手(にってんすいしゅ) |
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手はたれて足はそれなるおとこ山 かれたる枝に鳥や住むらん 第10図は「入鄽垂手」 悟りを得た修行者(童子から布袋和尚の姿になっている)が街へ出て、別の童子と遊ぶ姿を描き、人を導くことを表す。 このように再び、本にかえり、万物が豊かな色を示す世界に、私は何事も起こらなかったかの如く帰ってゆく。 解説: 童子が対面しているのは、悟りを得た老人である。悟りを得たものは、広くそれを伝えなければならないことをあらわしている。しかし老人と語る童子の姿は、最初の見跡の図に見える姿と同じである。 |
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