平成24年9月定例会一般質問(平成24年10月5日)No.3

<土木遺産の保存と活用について>


 土木の専門家集団である土木学会は、平成12年から歴史的土木構築物の保存を目指して全国の土木遺産を検証する制度がつくられています。文化財に指定はされていませんが、技術力が高く、価値ある土木遺産を後世に伝えようと選ばれているもので、これまで全国で234件が選定され、県内では智頭町の三滝ダム、若桜町の若狭橋、江府町の旧江尾発電所、琴浦町の菊港の東堤、西堤の4カ所です。
 琴浦町の菊港の東堤、西堤は江戸時代中期につくられたものと言われ、現存する東堤は長さが150メートル、西堤は90メートルで、どちらも玉石の捨て石積み構造で、ほぼ当時の姿であると言われています。
 ところで、この菊港、中国の明の時代の書物「図書編」の中に、阿家殺記という港に関する記述があり、16世紀には大陸との交易があったとも言われています。さらにこの菊港は、鳥取藩10港の一つとして、旧八橋郡の48カ村の年貢米1万3,000俵が、沖に停泊する千石船に小舟で積み込まれ、大阪に運ばれていたと言われています。そのほかにも、菊姫伝説など歴史的な逸話も残されています。
 さらに、こうした土木遺産は、当時の土木技術を知る上で貴重なものであるとともに、後世に引き継ぐべき遺産であると思います。県としても、こうした貴重な土木遺産を市町村と一緒になって保存活用するとともに、まだまだ眠っている貴重な土木遺産にもスポットを当てることが大切ではないかと思いますが、知事の所見をお伺いいたします。
 

●知事答弁

  
 この土木遺産に指定されたものは、全国でもなるほどなと思うものが結構たくさんあります。例えば東京でば、日本で初めての地下鉄である銀座線、今でもその名残が乗車してみるとその中に残っているものです。また、大阪の御堂筋、都市計画という考え方を日本に持ち込んで、美しい町並みをつくった代表例ではないかと思います。そういうものと並んで、鳥取県内にも土木遺産があるというのは、プライドとして我々大切にしなければいけないと思います。
 菊港あるいは江尾の発電所、また三滝ダムです。その中でも菊港についてはいろいろと情緒もありますし、周辺との関連性も深く、ひょっとするとこれからの観光資源の一つになり得るかなという期待を寄せています。今、鳥取県では、ホームページの中で紹介させていただいていますが、議員の御指摘もありましたので、これからは我々の知っている材料とか提供させていただき、地域のまちづくりと連帯して、土木遺産としての検証をさらに進められればと思います。
 というのも、1つは歴史でして、先般島根県のほうに行き、ふるさと知事会というのがありました。要は、中山間地域など多く抱える県が集まり、溝口知事がホスト役をされて、私どもも行きました。そのときに、松江城に行ったわけです。松江城に行って、皆さんといろいろな話をするのですが、皆さんが驚かれるのは、河本家のほうに堀江家ゆかりのものがあるということです。これは菊姫の御縁がありまして、そういう深いつながりが、松江から遠く離れて、もともとは月山富田城のものですが、松江からさらに分かれた遠い琴浦町のほうにそうしたものが残っていると。それは鳥取県民には余り想像がつかないのですが、島根の方々にとると、堀尾家ゆかりというと、それだけでニュースであり、行ってみたい、どんなものかなと。それのゆかりが菊港ですので、山陰全体としての歴史を知る上でも遺産なのだと思います。
 また、河本家が栄華をきわめたそのよすがを知ることができる住宅も今でも残されています。だからこそ菊港東堤、西堤ができたということになります。また、あそこはごろごろとした石を集めて堤防をつくっているわけですが、すぐ近くの赤碕では、今鳴り石の浜がプチブームになっており、ごろごろとした大きな石が海岸に打ち寄せられて、常にゴロゴロゴロゴロ音を立てているというところがあります。それと何というか親和性がある、周遊性のあるところではないかと思います。そのほかにも、島根つながりでいえば、ラフカディオ・ハーンの関係の小泉八雲関連のお宿があったり、さまざまに動きがあるところではないかと思います。
 これも古く歴史をたどれば、中国の明の時代の書物の中にもあらわれているということですので、発展可能性のあるスポットではないかと思います。それが土木遺産として、往時の、江戸時代の土木技術のすばらしさを検証するというのが組み合わさっていますので、そうした専門の方々からも興味深いものではないかと思います。ぜひ地元の皆様と一緒になり、もちろん若桜橋もそうですし、そうした土木遺産の検証に県としても協力をしていきたいと思います。

<土木遺産の保存と活用について>bQ


 知事は智頭町の三滝ダムを知っておられるようですが、私も行きましたが、本当に立派なものですね。昭和12年に完成したダムですが、日本では最後につくられたバットレスダムで、国内に現存する6基のうちの一つという大変貴重なものであるそうです。ダムの堤体がほかのダムとは形状が全く異なる立体和風格子状で、とてもすばらしいものでした。ぜひ議員の皆さん方も一度は見ていただきたいと思います。やっぱりこうした土木遺産を見るにつけて、県内土建業者の皆さんも後世に残る土木工事をしっかりとした技術で誇りを持って遂行していただきたいと願うものです。
 ところで、倉吉の小田橋改良工事や道路改良工事に伴い、車道として利用されていたJRの旧小田の鉄橋が撤去されましたが、仄聞したところ、この旧小田橋鉄橋は当時の最高の技術を集めてつくられたと聞いています。撤去されるに当たり、それらの記録はどのようになっているのか、お伺いしたいと思います。

●知事答弁
 
 三滝ダムの御紹介もありましたが、あのダムがすばらしいのは、こういう箱のようなものがたくさん格子状になっているということです。なぜそういうものがつくられたかというと、昔はコンクリートが貴重品だったと。今だったら重力式ダムでこれでもかというほど物量で攻めて、石でとめるようにしてコンクリートを打つわけですが、それだけのコンクリートを入れるととんでもなくお金がかかると。総体的に人件費が昔は安かったわけです。ですから、左官屋さんではないですが、人の手でこういう型をつくって、鉄筋を入れて、格子状のダムをつくった。今だったらコンクリートを流し込むだけですが、職人芸でそういうふたをするということをやり、強度を高めるために格子状の鉄筋が入った構造物をつくったということです。今はあり得ません。人件費が高くなっていますし、それと、総体的にはコンクリートの値段が下がっていますから、ですからそういう時代背景が今でも感じられて、とんでもない芸術品のようになって、今日残されている貴重なものです。
 小田橋もそういう意味では貴重なものです。残念ながら撤去してしまったわけですが、もともとは鉄道橋としてつくられていました。れんがをめぐらして、それをケーソン式に埋め込むようにしてつくっていると。これは今でも使えるぐらいの強度があったと。ですから、鉄道をやめて、鉄道橋が横に移ったときにも道路橋として建設省が再利用して使うほどに強度があったものでした。そういう意味で、美しさだけでなく、実用性も兼ねていて、当時の土木技術の高さを示すものです。
 これについては、我々としても記録というか、当時の状況はこれからもでき得る限り保存していきたいと思いますが、建設技術センターのほうに実物を残してあります。全部橋げたごと残すわけにはなりませんが、ちょうど地面との境目のところの構造がわかるような部分が建設技術センターの構内に残されています。これからもそうした建設技術の鳥取県での栄光を検証していきたいと思います。