平成21年6月定例会代表質問(平成21年6月12日)No.2

<知事の基本的認識について>

 
 この春、小渕内閣の経済戦略会議議長代理として構造改革の旗振りをされていた中谷巌多摩大学教授が、「資本主義はなぜ自壊したのか」と題したざんげの書を出版されました。議員の皆さんの中には既に読まれた方もあるかと思いますが、政府の経済対策のブレーンがみずから推し進めてきた政策を総括されたもので、私は興味深く読ませていただきました。
 執筆されている中身を簡潔に申し上げると、個人主義的な価値観に基づいたアメリカ型の新自由主義、市場経済中心の改革を国情の異なる我が国において進めていくと、社会が分断され、日本独自の伝統的なよさや日本の産業の競争力が失われ、日本社会の至る部分でほころび、つまり格差拡大を生み、日本社会の温かさを失わせてきた。みずから政策として推し進めてきた、行き過ぎた市場経済を批判し、みずからの気づきをざんげとしてまとめ上げられたものです。
 この書についてはいろいろな議論があるかと思いますが、政府のブレーンとして政策に携わった一人としてみずからの非を認め、改めて社会に警告した中谷教授の勇気を私は評価たしております。
平井知事は、お忙しい日々の中でこの書を読まれたのかどうなのかわかりませんが、構造改革の旗振り役がみずからの過ちに気づき、反省されたこのことについてどう思われるか、感想をお聞かせください。

●知事答弁

  
 私もこれは話題の書でもあるので拝読しましたし、これはまた別の機会でしたが、金子勝先生ですね、どちらかというと地方団体に対していつも好意的な見方をしていただいている先生ですが、金子勝教授による「閉塞経済」という本も読ませていただいたことがありますが、同じような問題意識があると思っております。金子先生の指摘は非常にシンボリックに言われていますが、最近、経済学の関係者の間でも、従来の構造改革路線一辺倒の学界の風潮からの回帰現象が見られると思いますが、今回御指摘の「資本主義はなぜ自壊したのか」という書物についても、そうしたいわば学者の良心を率直に示したものではないかと私は受けとめていますし、評価もしたいと思っています。

 中谷先生の議論は、今の議員の指摘のとおり、日本とそれからアメリカなり西洋なり、そうしたところでの価値観や社会の組み方が違うということ。そして、従来近代経済学が果たしてきた役割、これはアメリカの民主主義とも深く結びついていると思いますが、そうしたトクビルだとか、昔からのいわば価値観の体系がありますが、そうしたことに対する疑問符を投げかけるものであったと思っています。
 このたびの一連の構造改革ということから、いろんな現象が社会では起きてきた。中谷教授からいえば、例えば価格破壊という現象だとか、そういうことが起きてきています。それは近代経済学自体が人間というものをホモ・エコノミクス、経済的動物だというように考えるわけです。ホモ・エコノミクスですから、完全な情報を得て、それに基づいて合理的に判断して、そして経済的な構成を高めていくという、これが近経の考え方だと思いますが、そうした考え方があって、それが実際に世界じゅうを覆っているわけです。しかし、そこから生まれてきたものというのは、結局は一握りの人たちの経済的な富を生み出すものではなかっただろうか、そして勝者と敗者、強者と弱者という色分けを鮮明にする格差を生んできてしまっているのではないだろうか。
 日本の場合は、そもそも平等主義というのが根底にあるのではないかというのが教授の考え方だろうと思います。江戸時代は階級社会と言われます。身分社会と言われますが、その江戸時代ですら、「武士は食わねど高楊枝」という言葉がもてはやされたぐらいで、やはりその上位の階級にあるものが経済的富を得るわけではなく、むしろ一つのノブレス・オブリージュというか、自戒を込めて、ぜいたくをするということではなく社会の安定とか、人々の幸福を目指すということだと思います。恐らくこれは中谷先生はそう言われていませんが東洋的な儒教感だとか、そういう思想にも通じるものではないかと思います。我々の社会は、本来はそういうような天性の一つの傾向を持っていたわけですが、そこに経済的合理性というもので、すべてを組みかえてしまおうというものがもたらされたわけです。
 金融社会になって、金融経済が引き起こされたわけですが、その中でよく言われるのがリバレッジドの梃子を押すかのような、そういう金融商品がもてはやされるわけです。しかし、そういう金融工学の中で生まれてくるのは一過性的な富であって、一握りの人があぶく銭を手にするという構造で、バブルの経済に通じるものです。そうしたものだけで本来は解決できないのではないだろうか。むしろ日本社会にあるような優しさというか、社会の中の情愛というか、そういうものを基本に置いて考えるべきではないか。先生の言葉で言えば、人々の信頼というものを大切にする、あるいは現場主義だとか労働に対する価値というもの、その崇拝にも似た日本人の価値観というものを基本に考えるべきではないだろうか。そういうことから組みかえていく新しい経済学のあり方とか財政への提唱をされているわけです。
 個別には消費税の問題だとかいろいろと提言されていて、実際出てくるそうした政策提言のところは賛否両論いろいろとあるかと思いますが、私は、その経済とか社会に対する理解は正しいように思います。
 金子先生の本でもやはり同じようなことが言われているわけで、投資ということにどんどんと向かっていく社会になってしまった。それで、実際の需要と供給のバランスということではなくて、バブルだけを生んでいく、そういう経済システムになっているのではないか、このことを批判されて、むしろ社会的連帯とか環境とか、そのような新しい価値観に基づく経済を生み出すべきではないかということで、私も感性としてはそうした議論に共鳴したいと思っています。
 恐らく与党、野党を問わず、同じような考え方が今大きく生まれようとしているのだと思います。これがこれからの政治とか行政のあり方とかにも大きく影響を及ぼすような理念になっていくのではないかと期待しています。

<知事の基本的認識について>2

 
 最初に中谷教授の話についてお伺いします。確かに市場原理主義に基づいた構造改革という政策により、全国各地で多くの企業は倒産し、多くの、みずから命を断たれた方もあり、今さら何を言ってるのか、という思いは私にもありますが、なあなあの文化という我が国にあって、政治や行政に携わる人がみずからの政策を総括することはまれなことで、しかも政府の経済政策のブレーンがみずからの政策を総括されたということに驚きを感じ、改めてこの問題を取り上げたものです。
 私は、今日までの政治は、どちらかというと過去を総括することなく、みずからの失政も改革と称して、何事もなかったかのように政治が淡々と進められてきたかのように思うのです。政治は生き物で、日々社会情勢の変化に対応しながら進められなければなりません。例えば業として判断した政策であっても、時には副作用が大きな問題になることもあります。したがって、選挙による有権者の審判だけではなく、政治や行政に携わる者は時にはもっと素直にみずからの政策を振り返ってみることが必要ではないかと思いますが、知事の所見と、またみずからの2年間の県政を振り返ってどう総括されるのか、お伺いしたいと思います。

●知事答弁

 
 私は、当選させていただいて皆様とこの2年間任期を共有させていただきました。その際に目指してきたのは、鳥取県はこのままではじり貧ではないかという危機意識からです。と言うのも、最初にこの担当をさせていただいた時期、地域間格差が叫ばれていました。それは見る見るうちに構造改革の進化とともに広がっていったわけです。このままだと雇用が失われる地方と、そして雇用が集中する、そして資本が集中する都会部と、その格差が広がってしまうのではないか。これに対して、果たしてどうして鳥取県は立ち回ることができるだろうかと思ったわけです。

 私は、鳥取県でもしチャンスがあるとすれば、小回りを生かすことであり、それからまた人々のきずなを生かすことではないかと思っていました。そういう意味で中谷先生の書物には非常に共感を覚えたわけですが、本来日本のコミュニティーを持っているそうした人々の間の信頼感というものを大切にするような、これからの経済社会運営が鳥取県としてはふさわしいのではないかと思っているわけです。
 そういう意味で、いろいろなチャレンジをさせていただきました。正直なところは、今、出納長のお話を伺っていて、本当に御苦労をかけたなと反省することもあるわけですが、随分背伸びをしたチャレンジをさせていただいています。例えば環日本海航路の問題もそうですが、長い間できっこないと思われていたことに、私はあえて挑戦させていただきました。そして今、一つ風穴をあけかけているのではないかという手ごたえを感じ始めたわけです。
 経済社会の対応に接しながら、私たちのほうに企業誘致だとか活力を生み出せないだろうか、その意味で今、健康食品産業とか、またIT産業とか、従来とは違った業種も引き込むことができ始めています。ただ、これは残念ながら経済の荒波の中で今もまれているという状況ではないかと思っています。
 福祉とか人々の温かみ、医療政策、そういうことに対しても今メスを入れようとしていますし、それから子ども達の未来のための学力向上とか、また子育ての報告づくり、この辺も重要なテーマだと思って邁進しているところです。正直、道半ばだと思いますし、御批判はいただきたいと思います。その上で、それを次の2年間の原動力にさせていただきたいと思います。
 一番大きなことは、鳥取県民にとって余り得意ではないかもしれないなと思いながら、あえて申し上げるわけですが、それぞれが自分で前へ出ていって、そして手をつなぎ合って、そして企業活動とか、あるいは福祉だとか、あるいは教育の下支えだとか、地域社会で役割を果たしていくことができるようにならないだろうか。それが今私どもで提唱しかけている鳥取力の創造ということです。これができるチャンスは、私は十分にあると思います。例えば中海の一斉清掃だとか、あるいは砂丘の清掃だとか、我々はそうしたところで力を発揮して、全国の人たちから評価されるようなことを、いろいろな領域でできないだろうかと思っています。
 宗の古典で鶴林玉露というのがあって、水滴りて石をうがつというふうに言うわけです。一人一人の力は小さいかもしれないけれども、それで石をうがつことができる。これは鳥取県だからこそできる政策提言ではないかと思いますし、これからの運動の展開ではないかと思っています。
 私もその運動、これを私自身は実は次世代改革というふうに選挙時に唱えていたのですが、そのための触媒のとしての役割を果たしていきたいと決意いたしています。