平成25年11月定例会一般質問(平成25年12月5日)No.2

<国策の陰で>

 

 10月17日、県の主催で行われたハンセン病回復者の方々との交流事業に県議会福祉生活病院常任委員会として私を初め錦織議員、濱辺議員、坂野議員の4人も県民の皆さんと一緒に参加させていただき、県内の東・中・西地区から参加された68名の皆さんと一緒に邑久光明園と永島愛生園を訪問させていただきました。
 納骨堂への慰霊献花、歴史館等園内視察、さらには入居者自治会副会長である石田雅男さんから少年時代に強制的に隔離されてから現在に至るまでの生活についてお話を伺いました。これまで何度か訪問する機会がありながらその機を逃してきたみずからに恥じながら、改めて政治に携わる者として政治の責任の重さを考えさせられた訪問でした。
 ハンセン病患者の隔離政策は、御存じのとおり1907年、明治40年から本格的に始まり、1931年、昭和6年にはらい予防法が制定され、強制隔離が始まりました。特効薬が開発された後もらい予防法は継続され、ようやく廃止されたのは1996年、実に平成8年で、約1世紀にわたり人としての尊厳を冒涜する強制隔離政策が続けられてきました。この強制隔離政策により、ハンセン病患者は家族と引き裂かれた上、断種や中絶の強要など非人道的な行為が行われ、ハンセン病患者として入所された皆さんは家族まで人権侵害や偏見が及ぶことを心配され、入所後は身元を隠し、多くの人がこの地で亡くなられていました。
 平井知事も7月9日、邑久光明園と永島愛生園を訪問されたとお聞きします。過去国策として取り組まれていた強制隔離政策を忠実に無らい県運動として取り組んできた鳥取県ですが、鳥取県の知事として訪問された平井知事の感想をお伺いします。
 同じく、国策の陰でと題して質問します。
 私は10月21日、福島県飯舘村に行く機会をいただきました。御存じのように、飯舘村は東北大震災の福島原発事故で放射線量が年間50ミリシーベルト以上の帰還困難区域と年間20から50ミリシーベルト未満の居住制限区域、年間20ミリシーベルト未満の避難指示解除準備区域が混在する村で、訪れた飯舘村では、居住制限区域と避難指示解除準備区域で除染作業が行われていました。
 安全神話にコンクリートされた原発政策は原発で明るい未来をと称した看板が立てられるぐらい国策として推進されてきましたが、今では憲法で保障されている居住の自由さえ奪われ、生存権さえ脅かされている現状でした。
 飯舘村では、ことしの4月から120人から160人体制で住宅や農地での除染作業が行われていました。現在50から60ヘクタールの除染が計画されていましたが、2年間で除染を完了するためには5,000人から6,000人の作業員が必要であるが、現実的には作業員の確保が困難で、計画どおりには進んでいない現状でした。
 中でも宅地の除染作業の方法は、構造物については水圧の高い水をかけ目に見えない汚染物質を洗い流すほか、宅地内の土は全て5センチ剥ぎ取る。宅地に隣接する山の土も宅地から20メートルまで同じように剥ぎ取り、一時保管施設が確保されていないことから、剥ぎ取った土をナイロン袋に詰め、さらにプラスチック容器に入れ、水がしみ込まないようシートにくるみ、それぞれの自宅敷地内に掘った穴に埋め、最終処分場が決まるまで一時保管される作業が行われていました。
 田畑の表土も同じように剥ぎ取られ、1立米のフレックスコンテナに入れられ、仮置き場の農地には2万7,000個ものフレックスコンテナが山のように積まれていました。表土が剥ぎ取られた圃場には、山から運び込まれた真砂土が被覆されていましたが、将来耕作はとても無理な状況でした。
 同行者が持参していた放射線測定器がところによってはピーピーと線量が高いことを示す中、本当にこれまでどおり人が住めるのだろうかという不安を覚える現地調査でした。
 原発も安全神話の中、国策として推進されてきました。改めて政治の責任の重さを感じました。与野党を問わず、国会議員は1カ月ぐらい住み込みで除染作業をしてもよいと思うほど責任の大きさが感じられましたが、これら一連の状況と政治の責任を平井知事はどのように思われるのかお伺いしたいと思います。


●知事答弁

 
 
 無らい県運動を推進をしてきた鳥取県、これは議員も実際に現地を訪問されて、向こうの方々とも出会ってお話をされたと今克明に御報告をいただきました。我々としてこうした過去にしっかりと向き合って、二度とそういう過ちを起こすことがないように、また現実に取り残されてしまった方々に対する我々ふるさととしての役割を果たしていかなければいけないということだと思います。
 私も永島愛生園、邑久光明園を訪ねました。例えば愛生園のほうで中尾伸治自治会長さん、あるいは石田雅男副会長さんなど、さらに鳥取県出身の方にもお会いして、いろいろと親しくお話を伺いました。また、庁内放送というか、園内放送がありまして、そこで鳥取県知事として呼びかけをさせていただきましたし、県民を代表して亡くなられた方々に対する献花をさせていただきました。また、ちょうどグリーンウェイブの年です。全国植樹祭が終わってまだ一月半ぐらいのときですので、その植樹祭のときに天皇陛下のお手植えによるスダジイがありました。このスダジイをそれぞれ愛生園、光明園のほうに植えさせていただいたわけです。それで鳥取県をふるさととして、ことし皆さんが非常に思いを強くされたこと、その思いを実際に施設の中で暮らしておられる方々にも共有していただければというその一念で心を込めて植樹させていただいた次第です。
 無らい県運動というのが始まったのは、もともとはいわば衛生警察、衛生行政のかかわりだったと思います。一般公衆の保健衛生を守るために隔離政策をとったわけですが、それは当時としては一つの判断だったのだろうと思います。ただ、その後の展開が解せないところがいろいろあります。それは世界的には昭和35年ごろからハンセン病に対する治療法が確立して、隔離をして、コロニーをつくって、そこに閉じ込める必要がなくなったわけですが、ただ、その後も引き続いてらい予防法とか、そうした法制の枠組みが続き、そういう施設における隔離療養というのが続いたわけです。それが一部解放だとかに動いていきますが、法律の枠組みは変わらないまま平成8年まで行きました。さらに平成13年に国の方は熊本地裁の敗訴を受けてようやくこの問題に終止符を打つということになったわけです。
 結局行政としてブレーキがきかなくなったのだろうと思います。国のブレーキがきかなくなったところに地方もある程度つき合いながらいったということがあり、見るべき現実に十分向き合っていなかった面があるのではないかと思います。
 ただ、鳥取県はそういう中においてみずからの役割を自覚していたと言ってもいい面もあります。すなわち昭和39年から里帰り運動を事業として始めました。これは他県に先駆けてされたことです。また、平成8年に新しい制度改正のときに、いち早く当時の西尾邑次知事が施設のほうを訪問され謝罪されるということがありました。この辺が、非常に行ってみてよくわかりましたが、向こうの施設の方々にも鳥取県は理解がある県だと言っていただけるゆえんだろうと思います。我々としても、そうやって先人たちがこの問題の解決に向けて動いてきたことを胸にしっかりと刻み込んで果たすべき役割を今後も果たしていかなければならないと思います。
 10月26日に菊池恵楓園のほうに天皇皇后両陛下が行かれて、あのときは水俣病の患者さん、そしてこの施設訪問ということになりました。そのときに長くそこにおられる方々に天皇皇后両陛下がお声がけをされていた、そこに我々としての負の遺産を決算しなければならないという思いを強くさせていただきました。今後とも我々の事業をしっかりと現場の声を聞いて進めていきたいと思います。
 次に、原子力発電所の事故について、今の安倍総理が就任間もない2月の国会の答弁の中でもおっしゃっておられますが、一連の原子力発電所建設を進めてきた政治の責任というものを深く認識しているというお話で、その辺の深刻な反省という言葉をお使いになりましたが、深刻に反省しなければならないことだと。それで、これからのことについては、一日も早くふるさとに帰れるように、除染とか、そうした役割を政治として果たしていかなければならないというお話でした。
 これは前の民主党政権のときにも同様の発言がありまして、菅総理も、例えば震災から一月半ぐらいたった5月の連休明けのコメントの中にも、これは津波で起こった災害であると、ただその責任は電力会社にあると、ただそうはいってもこの原子力発電を進めてきた国の責任というものがあると、こういうコメントをされていたところです。与野党を問わずこうした原子力発電事故に対する真摯な反省の言葉から出発しているのではないかと考えています。
 ただ、私たちとして幾つかまだすっきりしないことがあることも事実です。大分変わってきてはいるのですが、当時の状況を申し上げれば飯舘村がまさにそうで、SPEEDIの情報が開示をされなかったわけです。ドイツだとか海外においてはSPEEDIの分析というもの、こちらのほうにいわばプルームと呼ばれる放射能を含んだ雲が行きましたということがわかっているわけですが、日本国民だけがそれを知らされていなかった。初動において、今でも当時の枝野官房副長官のたび重ねての地震の直後の会見が思い出されるのですが、原子力発電所は安全だと、大丈夫だということをなぜか繰り返し発表されたのです。それで、その後の状況を見てみると、結局飯舘村の避難が始まったのも地震から一月だとか、そういう時間の経過が必要だったようですが、もっともっと早く本来は動くべきでしたし、その端緒としては、あのSPEEDIの情報のような、そういう重要な情報を周囲の人たちに知らせるべきだったわけです。
 飯舘村の状況というのは実は鳥取県に似たところがあって、鳥取県は従来の8から10キロに入っていませんが、30キロに入るところもあり、それよりももうちょっと遠いところもありますが、いわゆる周辺地域です。福島県内でも周辺地域に十分情報が当時伝えられていなかったということがあったのではないかと思います。
 この辺の反省に基づいて今システムチェンジが行われているわけで、これを我々は求めてきました。SPEEDIの情報は開示すべきだと国に訴えて、国の方もそういう情報共有ということを認めています。ただ、SPEEDIという形になるかどうかは科学的知見をもとにして今再構成するようですが、いずれにしても、周辺に対する情報提供ということは従来よりは増していると思います。
 また、モニタリングの状況もそうです。当時は事故が起こらない前提でやっていたので、飯舘村のあたりで観測すらできていないわけです。今、鳥取県がそうですが、今では可搬型のモニタリングの装置を多数国の費用において配置させましたし、それから固定型のモニタリングポストも各所に配置しました。だから、当時の飯舘村の状況と今の鳥取県の状況とは大分違ってきている。それは原子力発電所の事故の責任をまず深く認識した上で、我々周辺地域のさまざまな声を聞いた動きもなされている。これはこれで評価すべき面もあるのではないかと思います。
 ただ、いろいろと今後についての課題、反省を残す後味の悪い事故であったということは事実で、議員もおっしゃいましたが、国の中枢におられる方々にはその責任を痛感していただいて、なすべきことを周辺地域に対しても立地地域とひとしくやっていただく必要があるだろうと思います。

<国策の陰で>bQ


 10月26日、天皇皇后両陛下とも熊本県の国立療養所を訪問され、ハンセン病回復者らと懇談されました。過去、皇室が強制収容の正当化に使われてきたという歴史があることから、天皇皇后両陛下は皇太子御夫妻の時代からその訪問も14回を数えていると言われており、患者の皆さんが置かれている状況に大変心を寄せられていると聞き及んでいます。国策として進められてきたこの強制収容に対する天皇皇后両陛下の無言の思いが察せられるのではないかと思います。政治に携わる者として、改めて肝に銘じなければならない事象の一つです。
 今、特定秘密保護法案が議論されていますが、法案がなくてもこのように無視されて社会から伏せられてきたということだと思います。人間としての尊厳を無視してきたハンセン病の隔離政策はやはり何よりもマスコミや医学、そして法曹学会、それから教育、福祉など各界がもっともっと正面から向き合っていればこうした問題は防げたと私は思うのです。それは国を初めいわゆる伏せてきたということが大きな要因であろうと思いますが、平井知事の所見をお伺いしたいと思います。

●知事答弁
  
 先日の熊本における両陛下の御訪問は我々の胸に残るものとなりました。過去の失敗、過ちを正さなければならない、その思いを強くさせていただきました。
 このハンセン病のことですが、昭和30年代からずっと平成に入るまで法改正すらできなかった。また裁判で負けて初めて国が方針転換した。これは一体どういうことかというと、これはいろんな分析がありますが、ある分析、私は当たっている面があるのではないかと思うのですが、結局役所の利害で動いた面があると。その役所の利害というのは、これは関係者の方々の名誉もあるでしょうから若干申し上げれば、役所の利害というのは意外にそれなりに背景があるわけです。このハンセン病のことでは、結局コロニーをつくってしまったわけです。愛生園だとか光明園だとか、そうしたところに隔離するということで生活が始まってしまったのです。そこに優秀なお医者さんたちも行くわけです。治療が必要ですから。当然ながら、真面目に収容された方々の人生を支えようとして頑張っておられる職員の集団もできてくる。このようなことで制度化されてしまったわけです。そこを外せなくなってしまったというのが多分あると思うのです。
 例えばらい病、ハンセン病の学会がありますが、それの重鎮たちというのは国立のこういう施設の皆さんたちでした。その人たちが、国際的にはハンセン病は隔離が必要なくなったということは多分学者的にもわかっているはずですが、それを無視したわけです。黙殺してしまった。厚生省は何をやったかというと、厚生省は大蔵省と折衝するわけです。収容されている人たちの生活を支えるためには法律で隔離をすると書いてあったほうが都合がいいわけです。結局隔離をすることと処遇を改善していく、そのための予算要求をしていくことが表裏一体になってしまって、もし法律がなくなってしまったらここにいる人たちに対して何の保障もできなくなってしまうのではないか、何の生活の世話もできなくなってしまうのではないか、根拠が失われると、こういうような思いがどうもあったようです。そんなことがないまぜになり、結局現状変更ができないまま何十年もかかってしまったということです。
 その関係者の皆様はそれぞれ自分たちのロジックがあったり、よかれと思ってやっていた節はあるわけですが、議員がおっしゃったように、臭いものにふたをする体質というか、見て見ぬふりをする、そういうふうに決め込んでしまう、現実に対して直視しないというような、そういう態度が結局この事態を引き延ばしてしまったのではないかと思います。こういうことは我々としても戒めとして、情報公開ということ、それから社会全体で問題を共有していく、そういうあり方を民主主義の世の中としては追求していかなければならないと考えています。

<国策の陰で>bR
 
 この交流事業に参加された県民の皆さんに参加理由を尋ねたところ、ハンセン病の経過を正しく知りたかったということや、入居者自治会副会長である石田雅男さんの話を聞きたかった、中には、私の同級生でしたが、学生時代に北條民雄の「いのちの初夜」という本に出会いハンセン病に関心を持ったということで、いろんな思いを持たれる中で参加されている人がたくさんありました。東・中・西それぞれ定員いっぱいの皆さんが参加されていました。これだけ県民の皆さんの関心が高い中、県として今後の取り組みをどうされるのか、知事にお伺いしたいと思います。
 
●知事答弁


 やはり我々としてきっちりとこれからも政策的に進めていきたいと思います。例えば今もパネル展をしたり、平成20年には記念碑をつくりました。また、図書館のほうでハンセン病の文庫をこしらえたり、また啓発活動としてのシンポジウム、それから先般議員も行かれましたが、訪問事業ということもあるかと思います。

 鳥取県への里帰り事業は、先方の患者さんというか、入所者の方の御希望を入れながら我々のほうで受け入れさせていただいていますが、ことしは、11月に多摩全生園のほうから希望がありましたので受け入れをしました。こういうこともこれからも続けていきたいと思います。
 先般も入所者の方と意見交換をした際に、何か従来よりもつけ加えてやるような必要なことがありますか、というやりとりもしたのですが、きょうこうして来てもらっただけでもありがたいし、今のままで結構ですということでした。これは入所者の方のお気持ちを第一に進めるべきことだと思いますので、現在のやり方をやっていくことをベースにして新年度予算の中で検討したいと思います。

<国策の陰で>bS


 昨日で震災後1,000日を迎えました。きょうが1,001日目ですが、東北大震災の避難者でも津波被害の皆さんと原発の避難の皆さん、中には同じところに避難されている方があるわけですが、津波の被害者の皆さんは補償費がないのに帰宅困難区域や居住制限区域から避難している皆さんには補償費があるということで、避難者同士でもいがみ合いがあると、そうした中で断絶があるということで、その苦悩はやはり大変だということを現地でお伺いしました。

 いずれにしても、除染作業により線量が下がり、一日でも早く安全宣言が出され、住民の皆さんが早くふるさとに帰られ、そして生活再建ができるという環境になることを心から私も祈りながら飯舘村を後にしました。これは私の思いです。

●知事答弁


 飯舘村については、現在も100名以上が県内のほうに福島県から避難をされてきておられますし、県外避難者が福島県全体で5万人ぐらい、福島県内で避難されている方が9万人、まだ非常に多くの方がおられるということで、一日も早い帰還ができる体制づくりを政府に望みたいと思います。