医院紹介コンセプト歯科医院の概要歯科健康ドック定期健診歯科矯正インプラントPRポイント保証・お支払い院長紹介院長室由梨先生スタッフ紹介歯っぴー通信ビーバークラブトピックスお問い合わせリンクトップ
雪山
雪山

◆◆台湾、玉山と雪山山行日誌◆◆

(2002年4月28日〜5月4日)



 台湾の玉山に登ってみたいと思ったのは、私が学生時代のことだった。30年前のことである。
当時では、海外の山に行くことは、稀なことだった。
 父の友人で、台湾出身の医師、石井先生ご夫妻を伊豆に訪ねたとき、石井先生に聞いてみた。
「台湾の玉山に安く行くには、どうしたらいいですか?」と。返事は「台湾からのバナナボートがあります。」ということだった。



 大学を卒業して、ネパールのヤルンカン(8500m)登山隊に参加することになり、その後、玉山のことは長い間頭の隅に置かれていた。
この度、5月の連休に玉山と雪山登頂ツアーがあることを知り、さっそく参加することに決めた。
 

 夏には、スイスの山に行くことに予定しているので、そのトレーニングをかねて、まず長時間歩くこと、ふだん使用している軽登山靴ではなく、冬用の重い革靴を使用することにした。
多少不安もあったが、扇ノ山と氷ノ山に登り靴擦れも大丈夫という感触を得た。



 
4月28日
 関西空港を朝方出発し、台北からバスで嘉義経由で玉山の登山基地の阿里山、阿里山青年活動中心(宿舎)に到着。21時、標高2000m。



 
4月29日 快晴
 阿里山の宿舎を出発し、登山口の上東埔(カミトンポ)にバスで1時間ほどで到着。8時40分。
 ここからいよいよ歩きである。最初は舗装道路を歩く。初めはやや登るが、その後、塔塔加(タタカ)鞍部へとけっこうな下りである。帰るときは、きつい登りかなと思いながら下る。
 タタカ鞍部からが、いよいよ山道である。前山の右手にある孟禄亭(休憩所)、西峰(3467m)近くの西峰下小屋(休憩所)を経て、今晩の宿泊地である排雲山荘(ハイウン)
に到着。15時30分、標高3402m。午後、一時小雨。
 
 夕食は、きのこご飯、味噌汁、野菜サラダ、キンピラ、大根塩漬け、デザートにドラゴンフルーツと久しぶりに山でおいしく頂く。両足のかかとに靴擦れが少し出来たので大型の傷バンを張る。
 夕方、晴れてきたので安心して寝袋に入る。



 4月30日 快晴
 2時起床。朝食は、雑炊。
 3時に出発し、森林限界を越えて、ジグザグの岩道を登ると
頂上に到着。5時、標高3952m、気温3度C.。
行動時間が短いせいもあり、暗くてあまり感動を覚えない。
5時20分、日の出。
頂上からの景観は、近くに北峰、東峰、南峰があるものの、遠方の山は小さくてよく見えない。
はるか北の方角に小さく雪山が望まれる。
 写真を撮ったり、紅茶を飲んで下山。

 排雲山荘でラーメンを食べる。下山では、ゆるやかな山道を下るが、徐々に暑くなり、靴の中が汗で濡れて、かかとのマメが痛くなり歩くたびに苦痛がはしる。気温は30度を超えて、熱気でもまいってくる。
 タタカ鞍部に下り、それからがコンクリート道の登りである。重い革靴は特にこたえる。
硬いコンクリートの上を汗を流しながら頑張るが、少しも進まない感じだ。
ようやく登山口の駐車場に到着。12時30分。
今日は、夏の暑さと足のマメでうんざり、苦痛の一日だった。
 駐車場でスイカを頂く。
 昼食は、胃があまり受けつけず不安が走る。その後、バスで東埔温泉(とんぽ)の沙里仙ホテルに移動。
さっそく屋上の露天風呂に入ってくつろぐ。
玉山山頂にて
玉山山頂にて

屋上から眺めると、昨年の台風による水害で、土石流が発生しその爪跡がいたる所に見られる。
10mはあろうかと思われるコンクリートの堤防が破壊され、家々の残骸が散見される。
 台湾は、山が急峻で、谷も狭いので水害が生じやすいようだ。
 夕食は、ビール、紹興酒、スープをおいしくいただき元気が出てくる。



 
5月1日 晴れ
 朝、バスで雪山の登山基地である武陵へ出発。
途中、日月潭(ズユエタン)。周囲24kmの湖、北が日輪、南が月輪の形をしているとか。
「阿里山の日の出、日月潭の夕日」は有名と知る。
水里。昔の玉山の登山口。
埔里(プーリ)。台湾地理中心。紹興酒の産地。蝶の世界的大産地。
2年前の地震で市の7割が破壊されたと知る。
 東西横貫道路補助線(山岳ハイウェイ)を通って、合歓山(3250m)へ。
道路の最高地点で、付近はスキー場になるとか。この道路は、3000m以上の高峰が連なる中央山脈を横断するもので、1960年に完成。昨年の水害で一部不通のようだ。
 道中、いたるところに檳榔(ビンロウ)ヤシの実を売る小さな店があり、車の運転手が眠気防止の興奮剤として使っているという。私も試してみたが、苦くてとても噛めなかった。
 梨山、環山を経て、登山口の武陵に到着。16時。
 1時間ほどゆるやかな山道を登って、シチカ山荘に着く。標高2463m。

 足のマメは、セカンドスキンとチタンテープでしっかりとガード。足の親指もチタンテープでガード。
これなら何とか行けそうだ。

 これが一人の旅行だったら、雪山行きは止めるだろうが、団体旅行となるとそうもいかない。
皆に気まずい思いをさせたくないし、私にも意地がある。つらいところだ。
 それにしても慣れている靴をもって来なかったのが、悔やまれる。楽しいはずの山行きが苦しみになってしまう。



 
5月2日 快晴
 2時起床。朝食も受けつけなくなり、食事が苦痛になってくる。
 3時、シチカ山荘を出発。今日は標高差1400mの登りである。
まず、樹林帯を急登し、雪山東峰(3201m)を経て、三六九山荘(3200m)へ至る。6時30分。
 関西弁で、M氏、MT氏、ツアーリーダーのI氏が、シャレとツッコミ、歌をうたってムードを盛り上げてくれる。
私もそのにぎやかさに戸惑いながらも、時々口をはさむ。
 ガイドの江日升氏も、口笛で千昌夫の「北国の春」を吹いてくれる。また、ビデオ撮影をしてくれている。
 元気のいい時には、話に参入できるが、徐々に疲れてくると声か出なくなる。

自分の足の重さ、重い靴がボデイブローのように身体に効いてくる。皆の足とりは軽く、久しぶりに自分の弱い立場を思い知らされる。

 三六九山荘を過ぎ、樹林帯を超えて、カール状の地形が開けたところの来る。カール内一帯には、ピンクや白の小さな石楠花(シャクナゲ)が群生しており、蕾のものもあれば、少し開いているものもありとても美しい。疲れた身にうれしい。
 風も涼しくなり、元気もでてくる。
 身体が重いので、深呼吸をして元気づける。
雲山の石南花(しゃくなげ)の群生
雲山の石南花(しゃくなげ)の蕾

 頂上への稜線が目の前に広がり、ルートもはっきりと分かる。もう少しの辛抱だ。苦しい身体に奮起をいいきかせる。いよいよ頂上へと続く稜線の上に出る。もう少しだ。

9時45分、ようやく頂上。標高3884m。
 皆とコングラチュレーションと握手を交わす。疲れてはいたが、自ら元気を出す。
登山口から付いていた道標は、10.9kmを示していた。
頂上から周囲の山は見渡せるが、玉山は雲がかかっていて見えない。
頂上でご馳走になったメロンは、すばらしくおいしかった。
今まで山で食べた果物の中でも一番だろう。写真と昼食をとって下山。


 下山途中、ガイドの江さんが先に行ったりしてビデオ撮影をするので、ペースが乱れてしまう。ツアーリーダーが何度か注意した後に、ビデオを取り上げてしまった。江さんが個人的趣味で撮っていると判断したからである。
 12時30分、三六九山荘着。昼食にラーメンが出されるが、食べずに昼寝する。足と気分の疲れが取れてすっきりする。


 元気を取り戻して、皆の会話に参入できるようになった。それにしても関西グループの元気の良さとツッコミには驚かされる。M氏の好奇心、博識、ツッコミ、MT氏の逆襲とパワー、ツアーリーダーのその場を盛り上げる会話と歌唱力など感心するばかりである。
文化の違いもあるのかと思うが、改めて思い知らされる。


15時20分、シチカ山荘に到着。ここでも少し横になって休む。荷物をまとめて下山。
あと40分ほどで、バスが待っている。もうひと頑張りだ。緩やかな道を皆といろいろ話しながら下る。
16時40分、登山口に到着。長い一日の行動を無事に終えてうれしい。

環山の春香さん宅で。中央が・秀美(淑子)さん
環山の春香さん宅で。中央が・秀美(淑子)さん
大学一年生の時、北アルプスの剣岳から穂高まで縦走し、新穂高温泉に下山した時、もうこれで歩かなくてもすむんだ、バスに乗れることのうれしさを思い出す。

 バスで、環山の通訳の洪春香(日本名春子)さん宅に到着。
夕食は、いろいろたくさんにご馳走になったが、
中でもアサリとトウガンのお汁が抜群においしかった。
えんどう豆の煮付けもよかった。
 食後、・秀美(センシュウビ、日本名小林淑子)さん、春香さんがいろいろのタイヤル族の民族舞踊を披露してくれる。
また、シカヨウ社の踊りを全員で楽しむ。

ここでガイドの江さんがビデオテープを見せてくれる。

最初に以前の登山隊がここに宿泊した時、淑子さん、春香さんなど地区の人達の民族舞踊、そして日本の着物を着た踊りである。いまだに日本の踊りが残っていることに驚く。
 次いで、今回の我々のビデオである。彼は、自分の遊びで撮っていたのではなく、皆に見てもらいたくて写していたのだ。言葉が通じないためにトラブルになったのだが、気の良い江さんには悪かった。行動中は、子供のような振る舞いがあるが、電子辞書で日本語を勉強したり、草花の写真を撮ったり、また、ポパイのようにパワーがあり、愛すべき江さんだ。



 5月3日 晴れ
 朝6時、淑子さんの泰雅族文物館(博物館)訪問。
酋長の孫として、自分たちタイヤル族の文化を保存するために、3階建ての博物館を作ったり、長年にわたり幼稚園の先生をして、地域のリーダーとして活躍してきた淑子さんの気概があふれている。 
また、織物や踊りを教えており、最近では踊りで賞を取ったと話していた。お土産に織物の紐を頂く。

 淑子さんの子供さんは、台湾の大学を出て、何人かはアメリカの大学を卒業し今もアメリカで仕事をしているという。
台湾では、自国だけの教育では充分でなく、アメリカなどの外国で学ぶことが当然のように考えられているようだ。
人々の世界的な視野の広さに感心する。

 博物館にあった新聞記事(東京新聞)によれば、「二十世紀梨の物語」の欄で、日本統治下で、環山に住んでいた警察官が、この地に梨の栽培を指導しとても尊敬されていた。戦争中に住民が日本人を襲撃する事件があったが、酋長であるおじいさんは住民を説得してこれに参加しなかったという。
 一人の日本人の行いが、このような影響を与えたことの意味を知らされた。

二十世紀の梨物語の記事
二十世紀の梨物語の記事
環山の梨畑
環山の梨畑

 環山一帯は、梨畑に囲まれており、家々はみな立派でとても豊かな印象だ。鳥取からも二十世紀梨の苗木が輸出され、現地の木に接ぎ木されて、台湾の名産地となっている。
 二十世紀梨は、とても高値で取引されるので、人々の生活はとても豊かだ。近年は、それでも少し値が下がり、キャベツが作られるようになったとのこと。ここのキャベツは、実がやわらかく台湾では評価が一番だと話していた。訪れた5月初旬は、すでに梨の花も終わり、小さな実をつけていたが、今度は梨の花を見に来てください、と春香さん、淑子さんは勧めてくれた。

 環山は、日本統治時代には、鹿洋社(シカヨウ社)といっていた。山の歌に「シカヨウ社の歌」がある。この歌は、恋歌でタイヤル族の酋長の娘だった淑子さんの叔母に、アミ族の若者が恋をした。

     いぼ(タイヤル語でハンノキ)のは陰で
     娘が一人、なにを悲しうて泣くのやら
     アワの祭りが近いのに
     オワハニ(おいで)オワハ二 オワハ二
     泣くではない ないよ ないよ

     次高山(雪山)のふもと
     スケランの流れ マスがとれる
     一度はおいでよ わがシカヨウ社へ
     オワハ二 オワハ二 オワハ二
     泣くではない ないよ ないよ


 朝方、環山に別れお告げ、宜蘭市(イラン)の礁渓温泉の湯の城温泉で汗を流し、
北関でおいしい海鮮料理(あわび、えび)を食べる。
 基隆への美しい海岸線の景色を楽しみ、台北に到着し、日本への帰途に着く。



 今回の玉山、雪山の山行では、豊かな台湾の自然に触れた。台湾には、3000m以上の高峰が133座あり、名前のない山を含めれば、230座に及ぶという。道中にも南湖大山などすばらしい山がたくさんある。また、次の機会に訪れたく思っている。


 中華民国山岳協会の周文氏に知り合い、話を伺うとともに玉山の写真を頂いた。登山ガイドの愛すべき江日升氏、日本語通訳の洪春香(春子)さん、泰雅族文物館の・秀美(淑子)さんと知り合い、親しくお話を伺ったことはとても有意義だった。
 日本から同行したツアーリーダー、参加した皆様のキャラクターとパワーに敬服し、また楽しく山行できたことはいい思い出となった。


トレーニングとの甘い考えで、重い革靴を使用し、足には負担をかけてしまった。家に帰って、使用した靴の重さを測ってみたら両方で2.50kgであった。通常用いている軽登山靴は両方で1.65kgであった。この差が、行動中に徐々に疲労となったわけだ。反省する次第である。



 ともあれ、30年来の願いだった台湾の玉山、雪山の山行を無事に終えることが出来た。
参加した方々に迷惑をかけずにすみ、私自身も傷つかずにすんでほっとしている。この次からは、細心の注意をして望みたいものである。

−END−


院長室へ  ホームへ戻ります  スイス・メンヒとユングフラウ山行日誌1へ

医院紹介||コンセプト||歯科医院の概要||歯科健康ドック||定期健診||歯科矯正
インプラント||PRポイント||保証・お支払い||院長紹介||院長室||由梨先生
スタッフ紹介||歯っぴー通信||ビーバークラブ||トピックス||お問い合わせ||リンク
トップ

Copyright(C). 2003 福嶋歯科医院 All Rights Reserved .