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『愛犬家通信ふりふりテ〜ル』2006年6・7月号

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梅雨は 当たり前のことですが、天気がはっきりしないので 気分まで暗くなります。
実は、私事ですが、悲しいできごとをお伝えしなくてはなりません。 マーフィーファミリーが「メーデル ドッグケアシステム」という名で開店してからずっと苦楽を共にし、当店の看板犬を勤めてきた私の伴侶犬べンケ(ラブラドールレトリーバー・オス)が6月21日、14年6ヶ月の天寿を全うし、永眠致しました。長い間、皆様にかわいがっていただき、誠にありがとうございました。
ふりふりテ〜ル2006年6・7月号
本犬も、たくさんの思い出を土産に旅立っていきました。さぞや満足であったろうと思います。少しばかり早めのようですが、老衰による安らかな最期でした。
ここに、ベンケに代わって、お世話になった皆様、かわいがって下さった方々に、心より御礼申し上げます。
6月7日の夜、いつものように食事を終えて和室で身体を休めていたベンケが、再びリビングルームに姿を現したかと思ったら、尾を下げて悲しそうに立ったままなので、排尿かなと思って促すも、脚が思うように動きませんでした。身体を支えるように和室に連れて行き、彼が身を横たえる布団に寝かせてやってからは、ついに寝たきり生活が始まりました。
二日ほどは、体調が優れないようでしたが、その後は持ち直し、一日中布団の上で休みながらも、食餌をとり、排尿、排便だけは自力で行くことができました。とはいっても、起き上がるにも努力が必要で、廊下で休みながらやっとの思いで勝手口から庭に降りるというありさまで、その度に補助をせずにはいられませんでした。よろけそうになる身体を支え、ゆっくりと本犬の動きに合わせ、用が済むとまた布団に寝かせるという状態です。
彼は、しかし、穏やかに過ごし、苦しむ様子を全く見せませんでした。最初の頃は、仕事に出かける私と共に出かける習慣からか、「行ってくるよ」の挨拶に反応し、必死に身を起こそうとしていましたが、柔和な目で私を送り、夕方まで帰りを待っていてくれました。仕事中は彼のことをしばし忘れることができましたが、実は、閉店してから家路に着くのがどれほど億劫だったことでしょう。特に、彼が本格的に弱りだして、食欲が完全に消失してからの日々は、家に帰ってその弱った姿を見るのがつらくてなりませんでした。どこが苦しいというのではないのですが、確実に死が近づいていることを認めざるをえなかったからです。
脚が立たなくなって二週間の介護生活を経たあと、ベンケは静かに生涯を終えました。最期まで、我々を手こずらすことも、うろたえさせることもなく、枯れ木のように自然に帰っていきました。
亡くなるまでの二週間は、元気で活き活きした時代と 多すぎる思い出が去来し、とても悲しくて、これまで経験したことのない辛い日々でしたが、いよいよ彼を見送ってしまうと、不思議なことに悲しみよりも安堵感と満足感に包まれました。ベンケは、24時間を共に過ごしたすばらしいパートナーでした。あのかわいい匂い、温かい体温、気持ちのよい感触、優しく私を見つめる温和な目、どれも、永久に消えてしまいました。どこにも彼の気配は感じられません。しかし、ベンケのことですから、きっと私をこれからも見ていてくれると信じていますし、その視線を感じて頑張ろうと、心新たに誓う今日この頃です。

ベンケ ありがとう

私にとって、ベンケはペットではなく、伴侶でありました。公私に渡って私を支え、癒してくれる、かけがいのない相棒でした。この機会に、少しばかり「岡 ベンケ」のことを語らせていただきます。
2月の寒い最中に迎えてすぐにパルボウイルス感染症にかかり、鳥取大学で一週間の点滴治療の末、奇跡的に生還しました。生後50日余りの小さな身体でよく頑張りました。その後は病気や故障に縁がなく、医者代のかからないことが自慢でした。
1才に満たない頃より某訓練所に預けましたが、これが結果として好ましいものでないどころか、人への不信感と尋常ならぬ警戒心を育む結果となり、扱いづらく、危険な犬になっていきました。その後、良き出会いに恵まれ、3歳から再訓練を始めました。その甲斐あって、彼は見事に「更生」することができました。このときほど、教育の大切さを痛感したことはありませんでした。新たに再生した彼がいとおしくて、私は可能な限りどこへ行くにも連れて行き、家庭だけでなく、仕事場にも同伴するようになりました。3歳からの教育の成果を発揮したくて、老人ホーム、肢体不自由児施設、障害者施設、保育園、高校の教室など、いろいろな場所で訪問活動をして、多くの人に喜んでいただきました。
彼はまた運動能力に長け、テニスコートのベンチを何度も得意げに飛越したり、フリスビーを空中高くキャッチしたり、それも、何度も何度もへたることなく繰り返すスタミナの持ち主でした。泳ぎはまことに巧みで、増水した千代川や逆巻く日野川に飛び込んだ話は有名です。動きが俊敏で闊達なところは、代々、意図的に生粋のフィールドトライアル系の血液のみで作られたためでしょう。私が指導手となり、共に三瓶山で行われた警察犬協会の訓練競技会にも挑戦しました。強風の中、私も82番のゼッケンを着けて頑張りました。ベンケは私の投げたダンベルを号令と同時に勢いよく回収に走ったものの、オーバーランしてしまったことを思い出します。しかし、ジャンプの切れの良さや活力にあふれた動きの良さを審査員に高く評価していただき入賞を逸したものの、ものすごく舞い上がったものです。「あんた、いい犬持ってるわ。」と褒めて下さった審査員の一言でその気になり、ボールや木製の大きなダンベルは、常に車内に積んでありました。
ベンケは私の元気の素であり、運動の友でした。しかし、室内ではほとんどスフィンクス状態で、いつも落ち着いて生活空間に溶け込んでいました。邪魔することもなく、なにをしても怒ることなく、決して抵抗や反抗をしませんでした。私を気遣い、静かに見守ってくれる子でした。ただ、晩年まで去勢をしてなかったせいで、色気の問題には悩まされました。「玉付き」のオスには闘志を露わにして幾度も恥ずかしい思いもしました。派手に喧嘩をしたこともあり、同性との遭遇にはいつも緊張させられたものです。平素は紳士でも、そういう場面では「森の石松」に豹変して、どれほど苦笑させられたことか。
老いや死などはウチのベンケには訪れないとすら思えるほど元気でしたが、13歳ごろから足取りやふるまいに老いを感じるようになりました。特に去勢をしてからは極端に老け込んで、さすがの私も淋しさを感じるようになり、いやでも老化を認めざるを得なくなっていきました。この春からは、ベンチを飛び越えるどころか、30cmの溝をまたぐのがやっとでした。
介護生活後半に入り、食べ物を拒否するようになってから、ああ、もうこの子の身体はそれを必要としなくなってると悟り、あえて、人工的に栄養を摂らせることをしませんでした。長い間、世話をしたのは私ではなく、私の方がベンケに世話になってきたことを強く感じ、死の床で 何度も労いと感謝の言葉を繰り返しました。「お前のようないい子に出会えて本当に楽しかった。幸福な14年間だったよ。支えてくれて、癒してくれて、助けてくれてありがとう。」力なく私を見つめる優しい目を瞬きながら、彼は「母ちゃん、僕もだよ。」と言ってくれているようでした。きっとまた会おうね、何度でも 私の愛犬に生まれてきてね。岡家に帰ってきてね、と涙ながらに頬ずりした感触は 今も生々しくよみがえるほど、つい先日のものです。
ふりふりテ〜ル2006年6・7月号
彼は、私の願った通り、苦しむことなく静かに臨終を迎え、私に迷惑をかけぬよう、定休日に合わせて生涯を終えてくれました。どこまでも親孝行なセガレでした。老いてさらに優しくかわいくなったベンケの遺影に花を手向け、般若心経を唱えながら、不思議にも心穏やかな供養の日々を送っています。ちゃんと心の準備をさせてくれて、素直に別れを受け入れることができるよう、あの子が全て計らってくれたように思えてなりません。

老犬の管理

この度、愛犬ベンケを見送って思うに、老犬のケアについて色々と学ぶことができたのは、私にとって幸いでした。人間のように顔や体形が若い頃から想像できないほどに変わってしまうわけではないので、その老化に気づくのが遅れがちです。実は私の場合もそうでした。ベンケが11才ぐらいまでは、老犬ということを意識すらしたことがありませんでした。なぜなら、散歩中も、工事用のハードルを飛び、階段を3段ほど一気に上り、元気そのものだったからです。12才を迎えたときも、この子はこれでも老犬だから無理をさせてはいけないと自分に言い聞かせるぐらいでした。
私がベンケの老いを意識したのは13才からです。車のバックドアを開けると弾むように飛び乗ったのに、脚をすべらせたり、乗りそこなったり(そういうコマーシャルもありましたっけ)するようになりました。動物病院の診察台にも飛び乗るのを躊躇し、大きな図体を抱えて載せたものです。
決定的なのは、13才間近に受けた去勢手術です。この直後から一気に白髪が増えて、短期間のうちに、玉手箱を開けた浦島太郎のようになってしまいました。老いてからの去勢は まさに文字通り、禁断の玉手箱を開けることだったのかも知れません。 すっかりお爺さんになってしまった彼を受け入れることは、私にとって拷問のようでした。耳が遠くなったこと、動作や反応が鈍くなったこと、売られた喧嘩にもほとんど応戦しなくなったことなどの老化現象を目の当たりにする度に否定したい気持ちになりました。いつもピラニアのような食べっぷりのベンケですが、量が多いかなと思った時は、しばらくしてから吐き戻していましたし、骨の消化は負担になるようで、晩年には与えませんでした。また、平気だったグリニーズ(歯磨きガム)ですら、破片を戻したのを発見してからは与えるのをやめました。最晩年にはドッグフードも完全にやめ、オートミール、馬肉ミンチなど、胃腸に負担をかけないものを選ぶようにしました。消化能力に衰えがみられるようになったのです。体温調節機能も低下するので、暑さと寒さの管理は、若いとき以上に気を使う必要があります。また、腎機能、心肺機能にも老化による衰えが始まるので、8歳ごろからは健康管理に十分配慮しないといけないようです。
ベンケは10年以上健康で過ごしていたので 私も老化への備えや健康管理に正直 無頓着であったことを反省しています。健康犬の場合、老犬ケア対策がかなり遅れる傾向があることを後で認識した次第です。
寝たきりになってから すぐに介護ベッド(床ずれ防止マット)を注文し、2時間おきに体位交換(寝返り)をしてやりました。30s近い図体ではありますが、彼はされるままに身を任せてくれるので、寝返りはさほど力も要りませんでした。ただし、自力で起き上がろうとする時の補助や倒れた時の補助には、さすが気合と体力が必要でした。ベンケに気を遣わせたり、不快感を与えないように優しく声をかけながらも必死でした。彼が、よたつきながらも排尿という「務め」を終えてまた戻ろうとする時など、愛しくて哀れで、「えらいねえ。よく頑張るねえ。お前は本当にすごいよ。」と涙まじりの声で褒めてやらずに居られませんでした。
もう別れが間近に迫っていると直感した頃、食物を口にしなくなった時、身体が「向こう」に行く旅支度を始めたな、これは自然の流れなんだ、と素直にそれを受け入れることができました。彼が、生涯最後に食べてくれたのは生の砂肝でした。私を喜ばそうと思ってのことかも知れません。部屋には外気を入れ、常にFM放送などのBGMを静かに流していました。いよいよ一かけらのパンにも、ティースプーン一杯のヨーグルトにも顔を背けたとき、FM放送から流れていたのは、なんとショパンの「葬送行進曲」でした。これは天のメッセージであり、にくい演出じゃないか、笑っちゃうよ全く、と悲しいのに余裕の苦笑いを浮かべたものです。最期まで、うめき声ひとつ立てず、まるで、風船の空気が少しずつ抜けていくように命の営みを終えたベンケは、死に方まで優秀でした。私は、その静かな死に顔にそっと接吻して褒めてやりました。
ふりふりテ〜ル2006年6・7月号
ベンケと過ごした14年間と2週間の介護の日々は、我々家族が終生共有しうる宝物です。皆さんにも、愛犬との日々を悔いなく過ごし、最期は「行ってらっしゃい。」と気持ち良く見送っていただきたいと願っています。そして、愛犬との日々を微笑みながら思い出し、生きる励みにしていただきたいと思います。

犬免許証って?

ベンケが亡くなってから、彼の居ない空間に発作的な淋しさを覚える瞬間があります。しかし、すぐに我に返り、いつもの日常に流されて、涙する暇もありません。ありがたいことです。
世の中、ベンケのように、死んでもなお愛され、惜しまれ、きれいな花やお菓子や線香を供えてもらえる犬ばかりではありません。名を呼ばれることもなく、飼い主に永久に背を向けられたまま消されてゆく犬たちも年間何十万頭も出る現実があります。
オーストリア人マルコ=ブルーノ氏の著書「東方犬聞録」の副題は「日本の犬にだけは生まれたくない」というものです。その中でも、保健所の殺処分について書かれた箇所が胸をえぐります。あのヒトラーの恐るべき殺人工場「アウシュビッツ」で使われた毒ガスより、もっと苦しい二酸化炭素による「処分」はむしろ処刑というべきでしょう。毒ガスが絶命までに5分かかるとして、二酸化炭素では10分かかるのだそうです。その間の苦しみは筆舌に尽くしがたいといいます。断末魔の叫び声が響き渡り、職員の多くは精神に異常をきたすと書かれています。捨て犬を減らすためには、飼い主の意識改革が急務であることは、かなり前から言われてきました。しかし、日本では相変わらずの状態で、事態の改善には程遠い状況です。一方、オーストリアはEU諸国の中でも、群を抜いて動物愛護に力を入れており、なんと殺処分がゼロだそうです。ペットショップも存在しません。そこで安易に衝動買いされた犬や猫が飼い主の都合で捨てられるという不幸は起こりません。とはいえ、オーストリアにも捨て犬はあるそうです。ただ、それを不要犬として処分しない努力をしているのです。著者は、日本の動物保護センターを「市のセンター」ではなく「死のセンター」だと皮肉っています。持ち込まれて たった三日目に処分されている現状を「かわいそう」の言葉だけで終わらせていいものでしょうか。
さて、その動物先進国オーストリアの首都ウイーン市では、この1月から「犬免許証」の導入が実施されています。なんと、筆記試験と実技試験の両方に合格した飼い主に晴れて犬免許証が発行されると、犬税(ドイツ、オーストリアでは犬の飼い主に犬税が課せられます)が一年間免除されるそうです。なんといっても、愛犬の首に誇らしげに揺れる「犬免許証」が 愛犬家の新しいステイタスとなっています。公共のマナーが守れ、犬をきちんとコントロールでき、しかも、対外的に損害や迷惑をかけないというお墨付きというわけです。
ふりふりテ〜ル2006年6・7月号
実は、私たち鳥取の飼い主の間でも、犬を迎えるにあたっては、保健所主催の「飼い主講座」を受講し、これを終了した人にのみ、「講習済み」の認定証を発行してはどうかという案が論議されています。飼い主の無知と怠慢が諸悪の根源だからです。また、安易に繁殖しては子犬を販売する業者にも厳しい規制が必要です。保健所に引き取ってもらえば なんとか解決できるという「命の軽視」から多くの痛ましい犯罪が生まれると断言する人もたくさん居ます。
日本は動物の発展途上国、いや、未開の国であり、動物に対して世界有数の野蛮国だと言われるのも、癪な話ですが、事実だと認めざるを得ません。この汚名返上、名誉挽回を期して、なんとか積極的な打開策を講じるべく行政に働きかけを続ける必要がありそうです。個人の力ではとても太刀打ちできる問題ではありません。
オーストリアの「犬免許証」についての詳細は次号でもご紹介するつもりです。
お詫び
この度は、大変勝手ながら、6月号と7月号を合併と致しました。加えて、マーフィーファミリーの番頭犬ベンケへの謝意と哀悼の気持ちでまとめさせてもらいました。8月号は早めに発行するよう頑張ります。
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